哲学の道 No.9
 すっかり御無沙汰してすみません。
 サボりではありませんよ。割り込んで来た仕事をこなす内に、ついつい我を忘れて、
忘れたことすら忘れ果てて打ち込んでおりました。やっと我が身を思い出し、今この
「ブログ」に帰り着いたところです。


 さて、その間にも冷やかしも含めての沢山の返信ありがとう。
「ブログ」とは日記という意味だそうですが、この「ブログ」は哲学と力んでいるもの
の日記のマメさもなく、私生活について楽しく御披露することもなく、やたら小理屈を
こねるばかりの雑記で、申し訳なく思っております。
 ただ、これら雑記を書き付けては、ネットの場にて発信、披露する作業は段々気に
入ってきました。何というか、考えることの腕立て伏せ、もの思うことの反復横飛び、
とでも名付けたら良いのでしょうか。如何な他者からの問いにも、如何な我うちなる
心理にも、先ずは一度必ず己の身体に響かせて、臓腑から筋肉を通して脳に上げる。
この手順が少し身に着いてきたようです。頭でなく、先ず身体で考えてみる、この手順
がこれからの私には相応しいようです。
 今までは疑問や批判を両耳から入れて、脳で考え込んでおりましたが、この手順は
もう限界のようです。どうも脳というヤツはあんまり頼りにならないぞ、というのが
近頃の私の実感になりつつあります。人間というシステムは人体の部分である脳で、
すべて統制がとれるほど単純な装置ではないような気がして来ました。
 例えば・・・この間から、気になって考え込んでいる日本語がひとつありますから、
取り合えず、今回の交信のネタにしてみます。
 その言葉は「一目惚れ」。
 言わずと知れた、恋愛に関する四字熟語で、男女のいずれかが、見た途端に強く恋情
をその異性に抱くことです。まあ、視覚によってその異性の容姿や表情を情報として
取り入れ、直ちに脳で分析し、性的魅力を感じて一瞬のうちに激しい恋愛感情を抱く
・・・と、まあこれが「一目惚れ」の手順です。何より、「ひと目見た」という行為が
先ず在り、眼による視覚情報が脳に持ち込まれて、「惚れた」という感情が身体に反応
として顕れたという手順です。その手順のことを「一目惚れ」と呼び習わしているワケ
ですが・・・果たして、この言葉はホントだろうかと疑い出しました。我が身に沿って
「一目惚れ」を点検すると、「見て」そして「惚れた」という事実が思い出にあまり
ないような気がするのです。


  そうじゃありませんか。
 ここのところは重大な論点なので、皆さん、仔細に思い出の中の「一目惚れ」を、
その瞬間を思い浮かべて下さいよ。
 あなたはひと目「見て」、その後「惚れた」のでなくて、「惚れた」ので、ひと目で
いいから「見た」のではありませんか。「惚れ」て、ひと目「見た」。実はその手順が
正確な事実ではないでしょうか。
 これは、人間という現象の不思議さです。
 俗言う、美味いラーメン屋だから行列が出来るのか、行列の出来るラーメン屋だから
美味いと思うのか、という論議になります。
 しかし「惚れる」という欲望は、間違いなく「ひと目」では生成されません。「惚れ
る」という欲望を生起させるためには、「ふため」見ることが絶対の条件です。なぜ
「ふため」、二度見ることが必要かと言えば、「惚れる」という欲望は、「惚れた」
ことに気付いていない状態の後にやって来るからです。まだ「惚れた」ことに気付いて
いない「私」が、すでに「惚れて」しまった「私」に気付く。これが「ひと目惚れ」の
手順です。
 欲望は二度くり返されねば、意識に「欲望」として立ち現れません。
 真に、卑近な例ですが、男性諸氏は妖しげな裸体の美女のジャケットDVDパッケー
ジが並ぶレンタルショップの棚でも、女性はガラスの棚に高級バックが飾られた原宿の
ブランド店、あるいはゲージの檻に和洋の犬猫が陳列されたペットショップでも構いま
せん。


 あなたにはその店で、一点だけを購入する資金があります。
 あなたは店内に入り、もっとも気に入ったモノを購入しようと決心しています。
 あなたは入り口から見て歩き、ついに店の奥まで行きます。が、何となく気に入った
モノがないような気がします。そして、止むなくその入り口まで引き返す。
が途中で偶然にもある商品と目が合い、俄然とある商品に引き寄せられます。
見落としていたのでしょう。
 あなたの心を捉えて離さない、その美女か、バックか、ペットかを手に取ります。
それこそ間違いなく、探し続けていたその商品でした。あなたは「ひと目」見て、
「惚れ」てレジへ急ぐのです。
 消費生活の中で繰り返し体験している「欲望」を刺激され、購入に至る消費の手順。
「欲望」の経済原理です。
私がこの「欲望」の手順に疑問を持つのは、一度目に店内を見た時に何となく「欲望」
を刺激するモノ、あるいは「惚れ」るに価するモノが見当たらないのに、二度目の時に
はまるで初めてそこに置かれたように、「ひと目惚れ」の商品が見つかるという事実
です。
これは店側の詐術でしょうか、購買意欲を測り尽くした店員の謀略でしょうか。
違いますね。やっぱり、「脳」ですよ。
「脳」が実は一度目の「ひと目」見たことを意識から消しているのでしょう。「脳」は
その欲望を意識化出来た瞬間から作動します。
 つまり、「やっぱり、これだ」と意識した瞬間から意識上に介入してきます。この時
に、さも自らが視覚情報を駆使して発見したように振る舞い、「やっぱり」を消し去り、
「これだ」の発見の声しか意識に残しません。故に、第一発見者の栄光を横取りし、
身体の司令塔の名誉と体面を保つ、自惚れの強い臓器なのです。
 こいつを頼りすると、まるでこいつが我が身の主人という錯覚が起こります。
しかし、こいつは目覚めている時のみ我が身を支配しているのであって、眠れば身体に
自動操縦を任せてしまう「私」という全体の中の部分の担当者です。すべてを頼ること
は出来ないパーツです。私たちには身体と言う全体があります。「脳」に手柄を譲りつ
つ、視覚より先に、それを見た私はどこにいるのか。
 それは恐らく身体全体に宿る無意識とういう視覚でしょう。
 全身に宿っている気配を察知する原初の視覚センサーでしょう。
 マリナーズのイチローがバッターボックスの中で、「打つ」「待つ」のニュートラル
状態から、「打つ」と決心してバットを振り下ろす瞬間、あるいは俊介か高原がマーク
を振り切って、無人のエリヤに走り出す瞬間、その時、彼らに起動を囁く、その声こそ
原初のセンサーなのでしょう。少なくとも、彼らはその瞬間を目でみていない。
その瞬間を感じて、「見る」前に、まったく「脳」を関与させずに身体を始動させてい
ることは間違いありません。
 脳生理学者のベンジャミン・リベットによれば、指を動かそうという意識から意志を
固めて、指を動かす場合でもその意志よりも0.3秒速くすでに準備電位が指に走って
いるそうです。
私たちは常に0.3秒遅れて、今の「私」を感じていることになります。意識や意志よ
りも速く動くモノこそ無意識です。最早、意識を意志に固めて、自分をコントロール
することの無力を充分に知りました。
 意識や意志の脆弱さは簡単な命題で、誰にでも確認出来ますよ。
 やってみましょうか。あなたの意志がどれほど脆いか。
 では、「五分間、白熊のことを考えないで下さい」。



 いかがですか、五分間、まったく白熊のことを考えないほどあなたの意志は強いですか。


 では、無意識をどう強化するか。これが困ったことに無意識は意識を通してしか意識
するこが出来ません。甲野善紀氏や内田樹氏の教えや著書を読み漁ってはいますが、
強化の方法はひとつしかないようです。単純なドリルを繰り返すこと、それが唯一の
強化の秘策のようです。それは・・・単純な日常を強い意志で単純にくり返すこと。
イチローのヒットが天文学的回数の素振りから生まれたように。俊介や高原のシュート
が死ぬほど退屈なドリブルの反復かた生まれたように。そこで・・・今、天気のよい日
は近くの公園を上半身裸で散歩してます。なんか、裸になると皮膚の感度が上がるよう
な気がします。マナー違反で、見られたザマではありませんが、男でも初夏の風に乳首
を晒すとその部分の感度が敏感になるような気がします。早川志織という女性歌人が残
した和歌を交信のシメに紹介します。


     胸をはだけ  子を待つときに 明らかに
          乳房は世界を  感じていたり



 この乳房が欲しいですね、世界を感じる為に私も。ともあれ、裸の散歩とこのブログ
への書き込み。このふたつは、私にとって無意識を強化する素振りであるし、思索を鍛
える腕立て伏せであるし、大事なドリルであることが少し判ってきました。退屈な練習
ですが、今後ともお付き合い下さい。あなたからの交信をお待ちしております。