哲学の道 No.8
 交信をひと月近くもサボりまして、すみません。
 何か、西さんからの応答でも、又他の方からの異議でも手元にあれば前回の交信から
の話しの接ぎ穂を繋ぐことが出来るのですが、その係のスタッフが「熊木杏里」のプロ
モーションに追われておりまして連絡がきませんので、ひとり物思いの呟きを綴り、
あなたとの交信を続けます。


「欲望」に導かれて、我ら「男」は異性であるが故に「女」という性に魅かれる。
その性はヴェールで隠すことで「性」を際立たせ、隠すことで「性」を顕します。
 では、そのヴェールがはぎ取られた後に「欲望」はどこに向かうか。
当然、本能に沿って男女は「性」の、それぞれの孤独の中に審級してゆくます。「男」
は「女性」を経由しなければ男であることを自覚できません。女性は違います。女性は
「女」の自覚によって「男性」を経由し、その「男性」との関係で女性という存在者と
なる。いずれにしても、自覚の手順は「愛撫」を繰返すことにより「性」の違いを男女
ともに確認し合い、「男」は女では(ない)ことを確かめます。女性はこの「男」の女
性であることを確認します。男は「女性」を失うと、己の「性」を消失します。
「私」は女では(ない)ことは「あなた」が女で(ある)ことでしか証明されません。
男にとって、「愛撫」は「あなた」ではないことで、「私」であることを担保する為の
試みです。しかし、「愛撫」は男女はそれぞれの孤独な性に分かれて、己の「性」を担
保し合う行為となるのです。


 さあ、ここから哲学しましょう。


 では、「愛撫」とは何か。


 フランスの哲学者、エマニエル・レヴィナスなる御仁が凄まじいことを言い残してい
ます。「愛撫」とは食人の疑似行為である、と・・・・。


 ブッ魂消(たまげ)ますよね。


 恋人同士が抱きあい、接吻とか抱擁とか、まあ、互いの肉体を探り合い確かめ合う、
あの情熱の衝動が、相手を喰らおうとする食人の代理行為というレヴィナス氏の指摘は
驚かざるを得ません。
 このレヴィナス氏の一文には、今年の初め、彼の著作の解説本を読み耽っている時に
遭遇したのですが、それからズッーとこの事を考え続けています。無論、今は「人食い」
は絶対の人類の禁忌ですが、「食人」行為は蛮風として、20世紀初頭まで未開の地に
在ったことは事実です。日本でも江戸期までは飢饉の村々でひっそりと「人食い」の異
常事態が発生した記録はあります。又、人の内臓が不治の病の特効薬として珍重された
無知があちこちの地方にあった事も事実です。
 しかし、その「人食い」の行為と男女の性を彩る「愛撫」が実は同種の衝動による、
というレヴィナス氏の論理は難解過ぎて考え込みました。
(或いは、レヴィナス氏の難解な哲学著作をしっかり読まれている方の中にはそのよう
に読むのではなく、あくまで暗喩として、ものの例えとして読み解くべきとの異論もあ
るでしょう。しかし、私はそう読んだのです。その読み方で読み解くしかありません)
「ヴェールの謎」の次に待ち構えいたのは何と「愛撫の謎」です。あの娘のパンティー
が見たいという衝動はどこから来るのかと言う問いから始まり、やっとパンティーを脱
いで貰ったら、次は触りたくなる「愛撫の謎」が立ち現れたのです。「性」とは哲学的
に何と難解な本能なのでしょう。
私たちはその難解な事をなんと楽々(?)とやってしまっていることか。
しかし、皆さんも実は時折考えませんでしたか。
「何故、こんな事を私はしているのか、どうしてこんなことがしたかったのだろう」と


 人間とは現象として観察すると、真に謎の多い生命現象です。
 ここではその現象を性愛に絞ってみます。
 愛撫し、愛撫される「私」に疑問がかすめた人だけに、エマニエル・レヴィナス氏は
応えます。疑問なき人には答えはありません。問う人のみに声が用意されています。
私は問います。
「愛撫」とは一体何なのか。「愛撫」は一体何を求めているのか。「愛撫の謎」を問い
ましょう。


 では、「愛撫」の行動を具体的に並べてみましょう・・・
まずは異性に「触れる」こと。次に「撫でる」こと。「抱く」こと。深まりゆけば、
「吸う」こと。「なめる」こと。「噛む」こと。「舌を這わせ」、「すする」こと等々
・・・。
 こう言葉を並べてゆけば、確かにレヴィナス氏の言の通りかも知れません。「愛撫」
と「食べる」と言う行為はその行為を顕す言葉がほとんど近似です。
しかし、「愛撫」と「食べる」の行為の決定的差異はその行動にすぐに立ち現れます。
「愛撫」は「食べる」行為をなぞりながら決して食べません。相手を捕獲した獲物とし
て取り扱い、その異性を食物として切り裂き、柔らかくする為にその肉を揉み、千切り
つつも決して傷つけません。何故か。そう、食べてしまえば、それは「殺人」になるか
らです。異性を幻想の食物として、「食人」の疑似行為を繰返すことが「愛撫」の本質
なのです。その行為は決して満たされることがない。しかし、満たされないことでやっ
と満たされる行為となるのです。欲望は満たされることでは終わりません。寧ろ満たさ
れないことを欲望するのです。
 いささかの飛躍になりますが、どうもレヴィナス氏はここから人間性という不思議な
現象を導き出そうとしている様です。
 つまり、「食べられる」のに「食べない」ことが「愛撫」という欲望を生み出すよう
に、「殺せる」のに「殺さない」ことから人類の人間性が起動したという事実を導こう
としているようです。
 これは重大な事実です。
 人間はその人間らしさの始まりに於いて、倫理を恐れ、刑罰を恐れ、神を恐れるから
殺人を否定したのではない。「愛撫」が指し示すように、「喰える」が「喰わない」か
らこそ「愛撫」は続くことを見付けたからこそ食人の行為を停止した、という事実です。
 しかも「愛撫」の複雑さは、男女でその行為を交換し合う。あなたは私を「食べる」
真似をし、私もあなたを「食べる」真似をする。
それが互いの欲望をさらに欲望することになる。
以下、レヴィナス氏の言葉です。


「愛撫」する手は何もつかめない。指はなにも触れない。口は何も喰わない。
そのことにより「愛撫」は「愛撫」を繰返すことが出来る。


 こう考えると、「愛撫」とは真に哲学的行為ですねえ。
又、ある意味宗教的行為ともいえます。聖書に記録されたイエスの行動・・・・最後の
晩餐の章で、裏切り者を含む十二人の弟子にイエスは神との契約の言葉を呟いています。
その言葉こそ、パンと葡萄酒を手元に置いての例えですが、
「取って食べよ、これは私の肉である。取って飲め、これは私の血である。」
将に仮想の食人行為を通過して、永遠の「愛」を生成してゆく手順をイエスは弟子たち
に諭しているようです。
「喰える」のに「喰わない」行為を通して、愛撫し合う男女は性的関係と言う「象徴の
世界」に踏み入ることが可能になるのでしょう。そのことは、「殺せる」のに「殺さな
い」行為から人間性が生み出されるのと同じことだと思います。
 先ず人間の善性があり殺人を罪悪としたのではなく、殺人を停止した時に人に偶然、
善性が訪れたことを「愛撫」は証明しています。
ややこしい理屈を並べ立てていますが、哲学的な物思いをぶら下げて暮らしております
と、時折、ハッとその証拠のような出来事に遭遇する楽しみがあります。
 隣家にソラと名付けられた犬がおります。犬種は小柴。愛らしい分だけ自尊心強く、
吠えると噛むのふたつを生き甲斐にしている犬です。初対面の時、まだ十ヶ月の仔犬で
したので手なずけようと餌を手のひらにのせて「お座り!」と命じて、撫でようとしま
したら、餌と一緒に指五本喰われました。
カッとなってひっぱ叩きましたが、それから2年後の今、ソラは私を含め人間との関係
に於いて、餌と餌を差し出す人間の手を厳然と分ける哲学的行為を会得しました。
 つまり餌も人間の手も食物に見えたソラは忽ち、「喰える」のに、人間の手だけは
「喰わない」行為を通して、「餌」を確実に得る術を体得したのです。
又、手のひらの餌を受け取った後も、その手のひらを舌で舐めて「愛撫」することによ
り、更に餌をせしめる術まで今は会得しています。こういうソラの人間性ならぬ犬性を
見付けると、これがレビィナス氏の問う「愛撫の謎」を解く標(しるべ)のようにも思
われて、ヤツの顔をジッと見つめたりしてしますのです。


「愛撫の謎」の次は何処に行きましょう。当然、もっと深い「謎」に迫るつもりですが
御注文でもあれば、連絡を下さい。
こんなに時間が掛かってしまいました。済みません。