哲学の道 No.7
 交信を続けます。(07/2・5)
 読み返せば、凄い問題設定をしたもので、「何故、男はパンティーに欲望するのか」
の自分の文章を読んで今頃恥ずかしくなってきました。女性の方には一読、悲鳴を上げ
て不参加の罵声をあびせられそうな語彙をならべてしまいましたが、ここは決して変態
クラブサイトではありません。
 何かしら、暮らしの中で取りこぼしている私だけの真実、他人にいくら語り尽くすに
も、残る片づかない私の気持ち、人前ではそれとなく避けている私だけの欲望・・・
それを開示することにより、実は私が(私)に閉じこめている普遍、まあ、本性のよう
なモノを目指しています。本性とは原理・原則の事を指しています。例えば、私たちは
「欲望」が指し示すモノを意識出来ますが、何故「欲望」するのか、「欲望」そのも
のを意識出来ません。
 今回は「パンティー」です。
 大まじめで、この問題・「何故、男はパンティーに欲望するのか」に挑んでみますね。
 この交信に早速応じて下さった、西さん、あなたと今回は応答の糸を結びます。
 応答の文章で、西さんは「下着に見える水着」で深い迷路へ迷い込んでいると伝えて
来られました。事情はこうです。西さんの身近にグラビアアイドルの異性がいた。
その女性は仕事上の撮影で、下着着用と水着着用を厳しく峻別する基準をお持ちで、
下着撮影は断固拒否。理由は水着は見せるもので、下着は隠すもの。西さんはこの違い
が判らず苦慮されています。西さんの応答の興味深さは、以下の告白にありありとした
体感がある事です。


「そして下着に見える水着と知ってその写真を見た私は、征服欲が満たされなかった。
故に、興奮度も下ってしまった。」


 これは西さんの欲望についての推測で、西さんは男が女性の下着を見たがるのは征服
欲・独占欲が欲望を牽引すると考えられた訳です。もし、ある異性が自分にだけ下着姿
を見せてくれたら、独占や征服の欲望は満たされる筈だが、不特定多数の男に向けられ
た水着姿では疑似の征服感であって、独占の欲望は満たされない、と推察された訳です。
 しかし、この方は自分の体感に沿って、この欲望の意味の奇妙さに自分で気づいてお
られます。例えば恋愛の対象である女性の下着こそがただひとつの欲望を起動させ、征
服と独占の充足をもたらすモノに違いないと思いつつも・・・以下、この欲望の奇妙さ
を正直に報告されています。


「いや、駅の階段で見知らぬ女性のスカートの揺れが気になったり、偶然見えて得した
気分になるのは征服、独占とはかけ離れているような・・・。(一部略)この問題、実
に奥が深い気がしてきました。」


 私はこの西さんの、「(見知らぬ女性の下着が)偶然見えて得した気分になる」と言
う告白にいたく感動しました。まったく同感です。しかし、この卑しい気分は謎ですね。
特定の女性の下着姿は征服と独占の欲望を充足させると仮定しても、見る気もない不特
定多数の女性(それでもある程度、いいなあという容姿の異性)の下着を見た時、何故
「得した気分」になるのでしょうね。西さんはもう自分で気づいて居られますが、それ
は独占でも征服でもありません。その気分はまさしく、道端で財布かお金でも拾った
「得した」気持ちと同種のものです。何故、そんな気持ちになるのでしょう。
 これ、哲学だと思いませんか。
 女性の方、どうかお笑いにならないで下さい。
 哲学とは、もともとあまりに馬鹿馬鹿しくて暮らしの中で打ち捨てた気持ちながら、
どうにも気になって仕方がない気持ちを最適の教材にする事が王道と信じます。故に今
回はパンチラ(品がなくてすみません)を盗み見る視線の根元にある「欲望」を哲学し
ましょう。 私も又、西さんと同感の気分を若き頃、抱いた体験があります。
 故に、西さんの「得した」気分にありありと身に覚えがあるのです。これは哲学の気
分です。
 西さん、これはこの気分の通りだと思います。
 つまり、偶然に見てしまった見知らぬ女性(くどいようですが、ある程度好みの異性)
の下着が貨幣と同様の作用で欲望を起動させたのでしょう。欲望を刺激するモノを拾っ
たのです。それは貨幣と同じもので、欲望ではなく欲望を刺激するものです。
 ほら、お金ってそうですよね。子供の頃は、欲しいモノがあって、お金を貯金したわ
けですが、大人の金銭欲はまず、お金があって(貯金額を見て)を見て、欲しいモノを
決める手順で欲望を起動させるわけです。この手順の欲望の起動を「大人になった」と
言うわけです。西さんはパンチラに拠って、欲望を刺激するモノを拾って貯めた訳です
から「得した」気分になるわけです。
 恐らく、女性の下着を盗む性犯罪者が押入れから溢れ出るほどの盗品を隠し持ってい
るのは、この貯金の充足感と同質の気分を手に入れたい為と思われます。
 この手順で、グラビアアイドルの下着と見間違える水着写真集が性的欲望を刺激出来
ない理由が見えて来ませんか。
 身も蓋もない言い方をすれば、それは金銭で交換出来るパンチラだからでしょう。
故に男性が「得した」気分になる。とすれば、女性が損をした気分になっても仕方のな
いことです。「得した」男たちに対して、その分を頭数で割って金銭で支払えという女
性側(グラビアアイドル)の経済原則が欲望を薄めてしまうからでしょう。グラビアア
イドルの下着に見える水着とは、この裸体に近い「わたし」を見ているのは、「あなた
たち」であって、「あなた」ではないことの指定なのでしょう。「わたし」は貨幣と同
質の欲望を刺激するモノであって、決して「あなた」の「欲望」そのもの、ではないと
いう承認の為の衣裳が彼女に「水着」と「下着」を峻別させるのでしょう。
 故に、西さんの興奮は急激に冷めた訳でしょう。それは純粋な「欲望」ではなく、コ
ンビニでモノを買うという経済活動と同じ興奮が混じり込んだ「欲望」だった訳です。


 では、西さんの「欲望」の正体は何か。
 まず間違いないのは、金銭で取引き出来ない「欲望」でなければなりません。誰も金
銭で取引きしようとは思わないもの、次に誰もそんな高額で買い取る気になれないもの。
「欲望」はそれを欲望しています。その「欲望」の最たるモノ、その「欲望」の象徴こ
そが、あのヒト(地上で最も好もしく感じる異性としてその女性)の下着です。
 今、西さんの問いは振り出しに戻りました。


「何故、男はパンティーに欲望するか」


 私の品のない命題に差し戻されました。実はこれは「欲望」の構造を解き明かす重大
な哲学的命題なのではないでしょうか。
「欲望」を正しく起動させる為には、「特別な自分」が出現しなければなりません。
日常では、「特別な自分」は恋愛によって生成されます。「あの娘」が好きな「俺」と
いう単純な関係で、「欲望」が起動します。スイッチ・オンで恋愛は次第に亢進してゆ
きます。この時、男の「欲望」は快楽原理に沿って恋愛を熟果させてゆきます。
男は贈り物(それは言葉であり、眼差しであり、思いであり、バッグであり)を与える
ことにより、彼女の衣服を一枚づつ脱がるせる、つまり彼女にとって唯一人の男である
ことを証明しつつ、彼女の裸身を目指す訳です。
 興味深いのは女性はこの時、まったく逆の快楽原理によって裸身を目指すことです。
つまり、男から贈られたモノを身に着けることにより裸身の決意を次第に固めてゆくこ
とです。ややこしくなるので、今回は女性の立場からは考察を保留します。今回はどこ
までも西さんの「欲望」に沿って考察を続けます。
 さて、西さん、恋する「俺」は「あの娘」との恋を辿り、遂に「欲望」の指し示した
象徴、「あの娘」の下着姿に辿着きました。
 私はここに立現れたモノを征服や独占の欲望ではないと思います。エベレストの頂上
に立つ事を、エベレストを「征服」した等と形容しますが、その体感を指し示す語彙が
「征服」「独占」というのは貧弱で、噛み合せの悪い言葉だと思います。同様に、「あ
の娘」の下着姿を見ている「俺」を満たしているのは「征服」や「独占」とは違うと思
います。
 それは「欲望」が目指した通り、「特別の自分」が生成された瞬間だと思うのです。
誰も目撃した事のない、誰も金銭で売買出来ない「あの娘」の下着姿を見ている「特別
な自分」。
 実は「欲望」が目指していたのは、「あの娘」の下着姿を経由して、その姿を見つめ
ている「特別な自分」に辿着く事だったのではないでしょうか。
 「男」が「あの娘」のパンティーを見たがるのは、実はその方法でしか「自分」は
「特別な」になれない事実がこの世にあるからです。
 別の言い方をすれば、「男」は「その女」によってしか、自分が「男」であると確か
めることが出来ない。事実です。


 さあ、西さん、我らの卑しい「欲望」が凄まじい命題を突きつけています。ここから
哲学の道は恐ろしいほど険しくなります。



 では、「男」が最も「欲望」したのは「その女」であるのか、「その女」の「パンテ
ィー」なのか。
正直に西さんにいいます。私もこの命題の答えを持ちません。
 その一点を考え続けるのですが、なんか頭がゴチャゴチャになります。その体験は確
かに通過した事があるのですが、よく思い出せないのです。性的な出来事はトラウマ記
憶と同様で強烈であればあるほどアヤフヤです。ただし、ハッとした物語りを見付けま
した。
 ギリシャ神話です。以下、紹介します。


 その昔、パラシオスとゼウキシスは共にギリシャ全土に名を馳せた画家であった。
この二人はどちらが唯一の名人であるかを決定する為に絵筆で決闘することとなった。
 そして数ヶ月後、ついにゼウキシスは自宅の壁に葡萄のたわわに実る絵を描いた。
その絵をパラシオスに披露した。その絵は完璧な出来栄えであった。ゼウキシスの描い
た葡萄をついばもうとして、窓から飛び込んで来た小鳥たちは絵に次々に激突し、床
に落ちた。
 その写実の才に人々は驚嘆した。ゼウキシスは勝ち誇った笑い声をあげて、パラシオ
スに勝負の作品の開示を迫った。パラシオスはゼウキシスと人々を自宅に案内した。
そして、ついに対抗すべき作品は開示された。だが、壁に描かれたその作品は布の覆い
(ヴェール)が掛けてある。ゼウキシスはパラシオスを臆したと見た。「はやく見せろ!」
と満座の人々の前で嘲笑いながら、その覆い(ヴェール)を取ろうと手を伸ばし、引き
剥がそうとした。その瞬間に勝負は決した。パラシオスが勝った。その覆い(ヴェール)
こそパラシオスの描いた作品であった。


 この物語りが私たちを揺さぶるのは、完璧な作品に打ち勝ったのが、ただの覆い
(ヴェール)であったという仕掛けです。そして、完璧なものより、更に完璧なものは
覆い(ヴェール)に隠されることによって顕現するという事実です。
 このパラシオスの覆い(ヴェール)を「あの娘」のパンティーに置き換えて下さい。
 どうですか、西さん。我ら「男」たちの下卑た「欲望」には実は重大な生き方に関わ
る哲学的命題が混じり込んでいるようですよ。
 どうも「特別な自分」は覆い(ヴェール)に隠されたものに拠ってしか獲得出来ない
ように思われます。パラシウスがギリシャで一番の絵書きであること、「特別な自分」
を証明したのが、(ヴェール)であったことが象徴として示している通りです。
 では、ギリシャ神話を横に置きましょう。
 我らが「欲望」によって下着姿を見せてくれた「あの娘」が「特別な自分」を証明し
てくれた、が「欲望」はそこを成就にしません。二人はその先の「性」へと侵入してゆ
きます。でもその時、その(ヴェール)脱ぎ捨てた「あの娘」は何でしょう。
迷路は更に深まります。(ヴェール)は引き剥がされたのです。「特別な自分」はこの
先何処に向かうのでしょう。私にも判りません。だから哲学しましょう。西さん、私に
暫く考える時を下さい。


 違う応答をお持ちの方は、是非この交信に参加して教えて下さい。


 今回はラカン(欧州の深層心理学者、哲学者)の言葉を置いて、締めくくります。


 ラカン先生曰く「男性にとって女性は(症状)なのである。」


 多分、すべての恋愛は男にとって、恋する女性の名の病気である、という意味だと思
います。また、交信します。 (07/2・10)