哲学の道 No.6
 前回より長い一服で申し訳ない。
師走の風に吹かれて、何やら芯のないままに、テレビバライティー番組をこなしている
内にガタリとモチベーションが落ちまして、いささか中年の「鬱(ふさぎ)」となり、
陰気な顔で生きておりました。
 まあ、心が鼻風邪を引いた程度の鬱病で治まっておりますのでくれぐれ御心配なく。
時折やって来るヤツなので付き合い方は判っています。蓑虫になったつもりで、ジッと
「鬱」の風に吹かれているしかなく、五体を丸めて気絶するように数日寝てばかりいま
した。しかし、交信をして下さる皆さん!「こころ」というヤツは不思議なモノですね
え。この「鬱」がみるみる回復するのですから不思議としか言い様がありません。
 前回に保留したままの「死後の私」、あるいは「消失点」まで今回は辿りつけると
思いますので、御付き合い下さい。


 さて、私の「鬱」を取り払ってくれた仕事は日本テレビで時折放送の「ジェネレーシ
ョン・ジャングル」。通称、「ジェネジャン」で堂本光一君司会の街場の若者たちとの
トーク番組です。様々な世代が集まり、忌憚なくワンテーマを語り合う討論番組です。
 スタジオセットの円陣型の討論席に案内されて座り込んだ時は、持病の「鬱」もあり、
ひどく憂鬱でした。第一、この番組はいささか苦手なのです。まず、初対面の人達と
遠慮なく語り合うのが苦手です。次に、収録時間が無闇に長いのです。皆さんがテレビ
で視聴される1時間のこの番組は収録にその4倍から5倍の時間をスタジオで小さな
椅子に座らされて収録されます。椅子に固定されたままで、その長時間を過すと首の周
りが石のように硬くなり、ほんとに疲労困ぱいします。まして、その日のテーマは
「十代の性」。最早、そのテーマ自体が私には遠いものです。そこで、番組打合せの時
に、演出家と企画のスタッフにお願いしたのは、「私は五十代の性を生きているので、
その立場で性を語らして欲しい」という事、次に「性は、それぞれの生き方と深く関わ
りのあることなので、番組全体の妙なマトメ役は私には出来ない」事。
 若きスタッフは気持ちの良いふたりで快諾とばかり大きく頷いてくれました。しかし、
危惧はありました。まず、テーマの設定が稚拙です。このふたりとはつき合いもあり、
ふたりとも番組製作の有能な中堅スタッフなのですが、それでも番組の構成にテレビメ
ディア特有の悪癖があります。「分かり易く」に価値に置く悪癖です。


 結論から言えば、私の予感通りにこの番組は破綻します。危惧は的中します。
 4時間を越える収録時間で、何一つ「性」についてその本性に触れることなく、堂本
君の司会進行も虚しく、てんで勝手に己の性体験を告白して、泥仕合のまま時間切れと
なりました。少なくとも私にはそう思えます。では、何故「十代の性」についてお互い
に巧く語り合えないのか・・・将に私にとっての好材、ここでこの交信に電子の糸を結
んで下さる数少ない方の為の好材料とも思えます。
 私の「鬱」が番組収録中にゆっくり晴れ始めたのは、空中分解のディベート番組で悪
戦苦闘している内に思考回路が熱を帯び始め、その熱で私は回復に向かったのでしょう。
では何故、こころは急に熱を帯びたのか。実は、このような過程こそがこの交信を開始
した動機でもあります。私にとって重大な動機です。では、「哲学の道」の実践練習と
してこの番組を振り返ります。以下、番組出演者の尊称を省略し、スポーツ中継の要領
で振り返ります。


先ずはこの番組に召喚された人達。
 杉田かおる・打たれ強い性スキャンダルの猛者として。


 荻野目慶子・若い頃、熱愛の果てに愛する人が自死に果てた体験をお持ちなので、
恋愛の猛者として



ふかわりょう・慶応大卒のお笑い芸人の彼には、番組全体のすべりを滑らかにする機知
の狂言者という役がふられているのでしょう。
 他に、ペトロなる東大卒の奇態な発言者(確かそんな名でした。りっぱな日本人で
ホントは気のいいアンちゃんみたいです)で、この人は番組のヒール(悪役)で、しゃ
べり場を混乱させる事により活性化させる為のトリックスターを担う人です。


 他は素人、芸能アマチュアの人達ですが、無論、番組製作者により「性体験」の猛者、
性が面倒くさいアニメオタク、伯父に性的虐待を受け続けたトラウマ少女、援助交際
売春で数百人の男の性行為に従事し、その労賃で家族を養った娘などがクリッピング
されていて円陣の椅子に着き、収録スタートとなりました。
 で、結果はといえば己の性体験の告白合戦となりました。
 これほどの性の猛者を集めれば、当然そうなりますよね。
 大学サークル活動で、女子学生をヒットして二年ばかりで百人と関係した青年、援交
売春で数千万を稼ぎ、父母に仕送りした娘、アニメの戦闘少女に恋をして、異性に何も
興味がないという東大生。
 そんな話しを幾ら積み重ねてもテーマの「十代の性」にすこしも近づけるワケでは
ありません。途中で、番組製作者がテーマを深化させる目的で送り込んで来たサプライズ
ゲストが、ティーバック水着で児童ポルノ誌のグラビアを飾るという中学生少女とその母。
この母子に、子役で辛酸を舐めたという杉田かおるがトラウマを振りかざして襲いかかる
流れになりまして、時間はすでに二時間を越えていました。この段階で、この番組は
司会の堂本君の奮闘虚しく破綻していると思います。延々と続いたそれぞれのカミング
アウトは有体にいえば、「性」の話しではなく「性器」の話しであり、他人の性器の話
をいくら積み重ねたところで私の「性」とは無縁です。無論、この手の話しで充足出来
る方ならそれで良いのですが、古びた「性器」しか持たない私には居場所のない番組と
なりました。それから又、延々と我が子の性を営業にして闘う母の反論が続いたワケです。



(この番組、御覧になった方もわずかに居られると思いますが、番組後半で突然、堂本
君の隣りの私が、武田鉄矢が、猛然と喋り出す興奮の顔は面白くありませんでしたか。
何せ4時間喋って、50分程度に削除・編集されておりますので、違う番組になってい
たと思いますが、私が発言し始めたのは収録開始から3時間を経過したあたりからです)


 その3時間を経過したあたりでは、伯父から性的虐待を受け続けた娘が死に救いを求
めた告白が続いていました。手首をカミソリで切る自傷行為にのめり込んでいったと
悲痛な告白ですが、この告白が、「手首にカミソリを当てて、スゥーと引くんです。
なるべくスゥーと何本も・・・」と精緻な擬音入りなもんですから、聞くうちに(かわ
いそう)ですが、古い虫歯を爪楊枝でつつかれているようで苛々してくるのです。で、
ティーバック少女のお母さんが「リストカットなら私もやりましたよ。」と対抗の告白。
苛立ちながら重ねて、「でも、死ぬ気はないのよねえ」と揶揄されて、テーマの「十代
の性」は粉々に砕けて霧散、司会の堂本君は唖然沈黙。
 このあたりで、私はキレました。
 まずリストカット娘に申し上げました。
「あなたの話しは聞いていて、少しも楽しくない。あなたのリストカットの方法を教え
られたところで、真似する気になれない。」
 何故楽しくないのか、何故真似する気になれないのか。それは実は人間の本性に少し
も触れてないからです。
 私は思う。人間の本性こそ「性」。「性」の文字が指し示すように、りっしんべんは
「こころ」を標記し、その横に「生きる」を並べたところに「性」の本質があります。
つまり「こころ」が「生きる」ところに「性」の意味があります。どれほど「性器」の
体験を重ねたところで、「生」に回収され、「こころ」に取り込まれなければ「性」は
体験とはなりません。
 私たちは「性」を通して、産まれてきました。次に「性」を通してジェンダー(性差)
を学び、「私」を獲得する為に幻想としての「あなた」を求めて、それに恋愛と名付け
ました。「私」は「あなた」を通してのみ獲得出来るものです。「あなた」がアニメの
キャラであれ、美しい同性の少年であれ、幻想を通して現実を創ってゆきます。


(恐らく、女性はこれとは逆の手順で恋愛と性的快感を手繰り寄せると思われます。
つまり、現実から幻想を紡ぎ出すのでしょう。が、私にはよく判りません。男である私
は女性の快楽原理については保留します。)


 次に私は、数百人の女子学生と性体験を持ったという学生君に申し上げました。
「君はまだ、いい女に出会ったことが一度もないだけ」。彼の性体験はただの交尾の
回数であって、しゃっくりやあくびと同種の生理現象。こんな人を「性」の代弁者で
連れて来たのは番組製作者のミスです。次にアニメオタクの東大生、この人は幻想に
止まって、現実を創れてないだけの人。「性」の技術が未熟なんです。「性」を語り
合う時、私たちは「死」の問題を語り合わねばなりません。なぜなら「死」が「性」
を生んだからです。
 個体である私は「私」の「死」を引き受けることにより、「種」として「私たち」で
生き延びることを選んだ生物です。
「私たち」は「性」を通してのみ、「命」を繋ぐことが唯一可能な生物です。
 人類を短期間に絶滅させることは簡単で、異性を恋する心、その人への性衝動を除去
すれば人類は100年以内に死滅します。生存をかけた性生殖の起動スイッチに何故
「恋する心」という不安定な心理をわざわざ選んだのか。それが謎なのです。「性」の
議論はそこから始めなければなりません。
 私たちが死者たちの「性」の結果として、今生きている事とやがて「死後の私」が
誰かの「性」の内で遺伝子というカプセルの中で生き続けるであろう幻想なくして、
「性」という象徴的世界は語れません。
 この「死後の私」という言葉を振りかざしたら、隣席の杉田かおるさんが頻りに
「こわい、先生、こわい」を繰返されます。恐らく、「性」に「死」を持ち出した私を
番組の空気から大きくハズした、スベッタと存在として優しく揶揄されたのでしょう。
このあたりで私は元教え子の注意を受け入れて、発言をゆっくり控えることにしました。
しかし、杉田さん、私はねえ、若い人たちやあなたを言葉としての「死」で嚇したワケ
ではありません。この後、続けたかった言葉は、「性」と「死」は実は表裏のモノで、
その一面だけを取り出して語る事は意味がないということだったのです。
 考えてもみて下さい、性交の果てに受け取る絶頂感をエクスタシー、つまり仮死と
名付けたのは何故か。
 最も欲しかった異性の肉体を抱きしめ、自分を激しくその異性に埋めようとする性
行為の途中で、ふと、「もう死んでもいい」と言う充足の清らかな思いがよぎるのは
何故か。欲望というグロテスクな行為に何故、こんな清冽な直感が立ち現れるのか。
 ほら、これはやっぱり「死後の私」という立場が「性」の中に潜んでいるからでは
ないかなあ。
「死後の私」とは、バラエティー討論番組を白けさせる言葉ではなくて、実はその場に
もっとも相応しい、「性」をもっと深く語り合える唯一の鍵語だと思うよ。死んだ自分
のつもりになれば、もっと自分の「性」を率直に他人に語れると思う。「性」とはその
「死」の仮定の中でしか語り合えない出来事ではないかなあ。
「性」は性器の出来事ではない。「命」の出来事なんだ。
 何故、「性」が私を性欲という衝動で、「命」を操ろうとするのか、それが謎なんだ。
だから、何人の女子大生と関係したかとか、児童ポルノ雑誌を手掛りに芸能界にデビュ
ーとか、ましてリストカットの方法など、何時間語り合ったところで「性」に辿着けな
い、と思う。



 では如何なる議題を設定して、「10代の性」を語り合い、討議の導入とするか。
私なら、「男は何故、女の子のパンティーを見たがるか」にします。
 このいかにもアホらしい欲望が最も男の性の本質を示していると思うのです。つまり、
欲望そのものではなく、その欲望を覆い隠す小さな布きれの「べール」が欲望の対象
なのです。
 私なら、「援交売春は何故、スケベなおじ様を客とするか」を討論の課題とします。
わずか数万の現金で身体をモノとして売買出来るのなら、買春客は正月のお年玉をタン
マリ持っている小学生、中学生にまで、拡げられる筈です。でも、小・中学校の前で袖
を引く売春女子高生は現れませんでした。ということは、この素人売春婦の娘たちが真
に欲望しているモノは、お金ではないのでしょう。
 彼女たちが欲望しているモノは、間違いなくスケベなおじ様との「関係」なのです。
「ベール」と「関係」への欲望が「性」を起動させる裏側に潜んでいるという仮定に
辿り着ければ、私たちはもっと「性」の本性にもっと接近出来たのではないでしょうか。
「死後の私」という仮の消失点を設定出来れば、もっと率直に遠近法の内に「性」を
可能な限りの言葉であぶり出せたのではないでしょうか。例えそれが、倫理の美しさの
ないグロテスクな「性」についての答えであっても、「そうか、おれも変だが、お前も
か」という「性」の違和感を互いに確認出来れば、「10代の性」はトーク番組として
成功ではないかと思ったのですよ、杉田さん。


「うーん」と苦しい堂本君の溜め息で、収録は終了。
 バラバラと円陣の椅子から解放されて、皆、それぞれの溜め息ついてお役御免でスタ
ジオで散会です。
 嬉しかったのは、私を追ってふかわりょう君とアニメおたくの東大生がそれぞれの
疑問を持って話し掛けてくれたこと。私の言葉に興味を持って、まだ話し足りない表情
であったこと。次に嬉しかったのが、「鬱」がゆっくり治まりつつある自覚が身のうち
に生じていたこと。そう、ムキになって話しているうちに心に熱が生じて、私の身を熱
くしていたことです。
 語り尽くし、書き尽くしたワケではありませんが今回の報告はこのあたりにしておき
ます。もし、私に時間が与えられれば、「死後の私」という消失点の設定については、
以下のような話しがしてみたかったのです。それは、先ず性愛の体験を通して、
「死んでもこの女(ひと)を忘れたくない」という強い欲望が生まれたとき可能となり
ます。この時、男女関係の、「与え」「与えられる」という関係から初めて性愛は審級
し、「性」を見下ろす視点が生成されます。ホラ、恋をしている時は「あなた」の顔や
表情や気配で頭が一杯になりますが、別れが来て、その恋が思い出になるとその思い出
の中には「私」もいて、恋をしている「ふたり」が記憶として浮かんでくるようになる
でしょう。その「ふたり」を思い出にした「私」が「死後の私」という視点です。
「性」はそこからしか語れないというのが私の言いたかった事です。そして、10代の
方達には、その為に「死んでもいい」という「性」体験をするまで、「死んではならな
い」という逆説(パラドックス)をタフに生きてゆかねばならないと言いたかったので
す。この理屈はいくらでも拡がります。「性」と「死後の私」は次回まで「保留」して
今回は置きます。


 私の年末の「鬱」を回復に導いたモノは多分、この交信への書き込みと交信して下さ
る数少ない方のお蔭ではないかと思っています。
 そう、交信のハジメに私、武道の「居着き」の事を取り上げましたが、「性」につい
て語り合う時、少なくとも私は「性」に「居着く」ことから少しは自由であったと自覚
があります。つまり、この交信が仕事場で術としていささか役にたったという体感があ
ります。その体感のいささかの充実が年末の「鬱」を払ってくれたのでしょう。己の
知的体力の為の鍛練怠らずと自分に言い聞かせつつ、書き込みました。次なる交信を
お待ち下さい。


又、あなたからの交信も、「なぜ男はパンティーに欲望するか」などの判りやすい謎を
互いの鍛練のためにボチボチと受け付けます。本年も宜しく。
2007・1/11