哲学の道 No.4
 交信を続けます。
 では、何故あなたとの交信が必要なのか。
 やっぱりそれは「私」が何者であるか、それをいよいよ学ぶ為の時が訪れたという事
でしょう。その「時」は、危機と伴に訪れました。
 私は人生の大半、私の言葉を使い、私の身体を道具として、表現者として生きて来ま
した。自分の言葉で唄を創り、想像の状況を想定して収束の思いを声にして唄を歌って
来ました。又、指定された脚本のセリフを私のリズムと音感で咀嚼して、架空の人生を
演じる事を生業(なりわい)として、芸能界の労働に従事してきました。
 私の言葉は私の過去と身体から生まれた私だけのモノと信じていました。しかし、加齢
と伴に私にひとつの限界が訪れました。それが作詞であれ、作文であれ、あるいは声と
して(あなた)に渡す言葉であれ、確実に力を失いつつある自分を自覚させられる事が
頻繁に起こるようになりました。これは明らかに、私が私の語法の成功例に囚われ、私
らしくあらねばと思う事が裏目に出始めた兆候です。これはやはり、危機の到来です。
 具体的に語れば、あるドラマで、追い詰めた連続殺人の容疑者・青年に刑事として対峙
するシーンがありました。この時、私に求められた演技は、誠実に諄々と説得する先生
のようにという注文でした。過去の成功例である金八先生を真似て欲しいという遠回し
の注文です。もし、この注文に応じると、ドラマ全体を殺す事に成りかねません。これ
は明らかに、私の語法の危機です。なぜなら、さあ、ここから哲学的迷宮に入りますよ。
付いて来て下さいよ。先ず、金八先生は脚本と物語りの中に実在します。
 彼は確かに存在するのです。脚本家の頭の中か、演出家のイメージの中に生きていま
す。で、その金八の代役に選ばれたのが、私です。私は金八の代役です。故に私は金八
ではありません。
 私は「金八先生」の代役ではありますが、他のどんな俳優もその代役は出来ないとい
う在り方で私は唯一無二を確保しています。しかし、その刑事役で私に求められたのが
「金八先生」のような演技という事は、私が刑事を演じるのではなく、「金八先生」が
刑事を演じる事になります。代役である筈の私が金八先生に唯一無二性の証明を要請す
る事になります。これは演技者にとって禁忌、絶対のタブーです。その演技をした瞬間
に私の唯一無二性は無効となり、私は代役としての「私」を失う事となります。
 更に分かり易く言えば、苦い体験の先例が私にはあります。
 私は坂本竜馬がスキです。私は竜馬がどれほど好い奴であったかを証明する為に、自分
の三十代をほとんど注ぎ込みました。彼の物語りを書き、TVドラマで彼を演じました。
私は彼の「代役」として、彼を証明したかったのです。
 この企画、「幕末青春グラフィティー・坂本竜馬」は成功でした。視聴率は30%を
越えて、幕末の志士の激情と伴に流れるビィートルズのヒット曲という組合せも評判に
もなりました。世評をさて置いても、この番組は私にとって重大な傑作です。私はこの
作品を今も泣きながら見る事が出来ます。
 ヒットの勢いもあり、3年後、この企画の映画化を企てました。作品は「幕末青春グ
ラフィティー・ROUNIN」。竜馬を中心に、幕末騒乱期の青春を再び描いた企画です。
率直に言えば、完全な失敗でした。何もかもうまくゆかなかった過失の作品です。私は
この作品を一度も見た事がありません。見れば苦しくなるだけです。私はこの作品で、
精神的に相当な深傷を負ったようです。この過失に、20年後の今も苦しんでいます。
 映画というモノの恐ろしさです。TV作品の前作と比べて、映画作品はどこで躓いた
のか。私が同質の禁忌を犯しています。竜馬の「代役」であるべき私が、竜馬に私を証明
させようと足掻いています。これは禁忌の侵犯であり、自己の唯一無二の破棄です。
しかもこの過失の意味が判らず、20年後の今ごろになってやっと事の重大さに気付い
た次第です。
 私に語法の衰えを感じさせてくれたのは、私が引き受けなければ「老い」です。
「老い」が私に過去の成功例にしがみつかせようとしています。しかし、あの三十代で
犯した過失を絶対に再び犯してはなりません。成功例に縛られた時、内なる禁忌を易々
と犯し、後は自己偏愛、ナルシズムの幻覚中毒者になるだけのことです。それは自ら世界
は閉じる事。自分である事を捨てる事になるからです。なぜなら、自己を確認すべき他者
を持たないからです。
「私は私だ。」と言い切る人間に世界はありません。
 それは己の尻尾を喰い続ける蛇同様に、空腹を満たすと同時に死につつある姿の象徴
です。己の過去の成功例を真似る事はこの蛇と同然の姿に成り果てる事です。私の「内」
に私はいないのです。
「私は私ではない。」
 この奇妙な語法の中にこそ、私が待望する「私」が存在するのでしょう。
この理屈が判らず、閉じたその世界から脱出するのに二十年以上の月日を彷徨いました。
この過失を再度、繰返す事は人生を過失のまま終わる事になります。
私は新たな語法を探して、世界を開かれたモノとして、「外」を求めねばなりません。
「老い」の醜さは、自己の「内」に堕ちる事です。例えば小鳥の卵が卵自身を守り抜け
ば、自ら腐り果てる事になります。「外」に如何なる危険が待っていて、巣から落下する
事になっても、自己の殻は内から突き破らねばなりません。
新しい語法を求めて、今、私も守る語法を廃棄、無効にして、「私ではない人」の中に
「私」を探しださねばなりません。私が決して、「私」の内に堕ちない為に、今、外に
居るあなたに「私」を証明し続けねばなりません。故に「外」との交信が必要なのです。
竜馬との出会いや金八先生という「役柄」が私の人生を造ったように、「私」を造り出
すモノは内になく、いつも外から到来してくるモノです。
 この交信は私にとって、「外」を欲望させる作業であり、あなたにとって、私がいつも
「外」であるような交信を希求して止みません。恐らく、武道家・甲野善紀が「居着き」
と警戒したものを私は、「内」に堕ちると解釈しています。
尚、偉そうに哲学しておりますが、ほとんど武道的哲学者・内田樹の著作より、理屈を
お借りしております。 今回も彼の著作の中から、ギクリとした文章を紹介して閉めます。


「彼」こそが「私」の起源であり、「私」の生きる意味の担保者なのである。だから決
して現実の世界には存在しないものだけがもっともたしかな仕方で「私」を現実的なモノ
として基礎づけてくれるのである。


(追伸として・・・交信に応じて下さる方、数名あり。返信の文を読ませて戴いて、
何か嬉しくてなりませんでした。)