哲学の道 No.3
 (3回目です。さあ、へ理屈を続けますよ。)


 いやあ、この欄の私のモノ思いの文章は酷く不評のようです。事務所スタッフより難解
すぎる、と遠回しの感想を受けました。が、このまま続けます。
何故なら、この交信はあなたに「私」を説明する為でなく、あなたと交信する事に拠って
「私」を確認する為だからです。あなたに交信する事に拠り、私は辛うじて「私」である
のです。率直に言えば、今まで私は「私」を判りやすく説明する事に悉く失敗してきまし
た。
判りやすく説明した為に、「あなたがよく判らない」との誤解を受けましたし、「あなた
はそんな人ではない」との注意も受けました。家族、事務所スタッフ、仕事仲間は悉く
「私」を誤解しています。
今も誤解は続いています。これら他者との交信(コミュニケーション)に拠って生じた
誤解で私は人生の半分を使い果たしたと言っていいほどです。
 しかし、誤解を次々に生じさせた交信は失敗か。否です。交信とは元来、誤解をエネル
ギーにして始動するものです。問題は何故、私は誤解されたのか?そうです。私が
「私」を判りやすく説明したからです。
「判り易い」という形容ほど危険なものはありません。考えても見て下さい。
「分かりやすい」政治、「判りやすい」宗教、「分かり易い」国々が世界をどれほどの
混乱に巻き込んでいるか、「解りやすい」戦争が人間にどれほど残酷か・・・
そして「ワカリヤスイ」人とは実はほとんど軽蔑の形容である事に私たちはもう気付かね
ばなりせん。
 つまり、「ワカリヤスイ」人とは交信する必要のない、無価値の人物という意味を内包
しているのです。「あなたという人が判った」とは交信遮断の最後通告に他ならないので
す。私が「難解」に、あなたとの交信を夢みるのは「分かり易さ」に拠る遮断を回避する
為です。私はあなたをワカリヤスイヒトにはしません。誓います。
 そして、ブログの女王を目指して近所に火をつけて廻ったムスメのようなワカリヤスイ
ヒトが交信に参加しないように我らは高々と壁を築きましょう。養老博士が世に流布した
『バカの壁』を張り巡らしましょう。壁によって仕切られた両世界のヒトが互いに「バカ
」と蔑むことの出来る自由を確保する為の壁です。


 では、前回登場した内田樹の合気道的論理をあなたに紹介します。
 彼の著作の以下の文章に出会った暮夜、私は粛然と座り直し、霊感に打たれた如く暫く
放心しておりました。私の中年後期を決定的に励まし、未来に置いても錆びることがない
と直感した言葉です。


『ある綱領を信奉したり、ある信仰箇条を実践することによって、一夜にして「回心」が
あり、すべてが美しい整序のうちに顕現するというような気楽な出来事は「越境」につい
てはあり得ない。
 なぜならそれは「力仕事」だからである。
 毎日、毎日、身体を動かし額に汗して誰にも代わって貰うことのできない自分の責務を
果たすようにこつこつと自分の言葉を鍛え上げてゆくである。
 それはたとえて言えば「コミュニケーションの修行」ということである。』


 武道の構えが論理として上記の文にはあります。
 この言葉こそ大衆演劇、ショービジネスという過酷過ぎる舞台日程を芸人に平然と要求
する世界にあって、私を唯一励ました言葉。
 この後も私を揺さぶり、起動させた言葉です。
 芸能労働の激務の中で、私は「居着き」や「ナンバ」の武道的身体の獲得を夢見ました。
その目論見に対して、内田はさっさと「あり得ない」と結論付けています。
「過酷さ」に対して、それを飛び越える秘術や神懸かり呪文など何処にもない。自分とい
うモノが、ある日突然に完成し、昨日まで醜悪に見えた世界がある日を境に美しく輝いて
いる・・・そんな奇跡は絶対に「私」に起こることはない。
 では、どうする?内田は「過酷さ」に対して、その「過酷さ」を黙って引き受けろ、
といいます。
「過酷さ」を飛び越す為の身体を武道的術理に求めることが、必敗の構えであるし、力み
であると見抜いています。力みは他者に答えをねだります。
「何故、私だけがこんな苦しい目に会うのですか」
 問いは身体に「居着き」を生じさせ、必敗の悪循環が待っています。出口はありません。
内田は問うと同時に答えがあるではないか、と言い切ります。答えは、「私だから」です。
「私だから」、苦しいのです。ならば、その「私」を私が引き受ける。
他者への「問い」を消す。
「私だから」という過酷さを黙って耐えて往く時、やっと他者との交信(コミュニケーシ
ョン)が開始される。「私だから」こそ、あなたと語りあえるのです。
そして、それが過酷なショービジネスであれ、私が日々の舞台で求められているのは、
実は観客に対する「私」の交信力だったのです。
 内田の、「コミュニケーションとは修行である」の一言は禅坊主の叩き棒に打たれたよ
うでした。
 悔し紛れに、暮夜、その著作のその行に私はフキダシを付けて、密かにひと言付けたし
ました。


「コミュニケーションとは命がけの修行である」


 この『コミュニケーション』は他者との交信という広義の意味を示しますので、人間関係
のすべてに適応します。すると、このひと言は『』内の単語を入れ替えることにより、
他者との関係に於ける名言となります。例えば、「夫婦関係とは命がけの修行である」
「不倫の関係とは命がけの修行である」
「親子関係とは命がけの修行である」
「嫌いなアイツとの関係とは命がけの修行である」
 そして、このサイトを読んで下さるあなたとも「修行」の関係を夢見ています。
分かり易い「修行」など、つまらないと思いませんか。ラジオ体操のように、壇上の指導
者の分かり易い号令と伴に、身体を動かすことは五分で退屈でしょう。
 それを「修行」に高めるには、お互いに難解でありましょう。
 内田はその著作の中で、『コミュニケーション』の限界についても早々と結論していま
す。以下、紹介します。



『他者とのコミュニケーションは不可能な夢に近い。しかし、それを激しく夢みることの
できないものは、ついにコミュニケーションの不在にさえ長く耐えることはできない』


私は今、あなたとのコミュニケーションを激しく夢見ています。