哲学の道 No.1
『哲学の道』  このサイトを立ち起こした理由を今、うまく説明する事が出来ません。
ただ無性に他者との交信を求めて、文字を列ねてみたくなったのです。原初の人が洞窟
の奥深く、土や泥で牛や馬を描き、又、古代人が墓所の石壁に奇妙な姿の神々や神獣を
刻んだような情動です。
とても古くさい欲望の衝動であり、とても動物的な生理の行動です。グロテスクな語彙
ですが、この交信はほとんど発情です。
 鳥のサエズリや獣の遠吠えと同種のもので、異性を求めつつ同性を遠ざける欲望の信
号です。
又、他者を求めつつ、他者を拒絶する矛盾の発信です。
 私は匿名多数の(あなた)を拒絶します。
 私は唯一無二の(あなた)を求めて、このサイトに独り居ります。
 もし交信を求めるなら、私の使用する語彙・語法に従うことをルールとします。今は
その一つだけをルールとしましょう。
 見上げる虚空にはインターネットや携帯電話の声が磁気に変換され小さな波と飛び交
っている現代です。
 現代の虚空に熱帯密林の闇の内にこもる幾千、幾万の生物の生理と欲望の唸りが充ち
満ちています。私も唯一無二のあなたと言う(雌)を求めて、虚空に向い吠えることに
します。
 まずは(雄)として、私から発信します。


 近頃、私がはずんでいるのには理由があります。
 そのひとつが奇妙な思想家たちとの出会いです。ご存知の方も多かろうが、私は思春
期から青年期を通して、「司馬遼太郎」という作家の作品群に魅せられ、彼の手による
作中人物たちを実在の人として、語りかける奇癖を体質としました。
 しかし、思想や初心というモノも、それが個人を励ます道具である以上、耐久年数が
あります。
中年期に差し掛かり、趣味と遊びにおいて、道具にこだわり続ける事は(こだわり)と
言う愛嬌に成り得ますが、それを日常の中で振り回す事は凶器を手にした人物の振るま
いと同様です。
 青春の己の思想を度量衡として、世界を測る博識者語や己の青春を下敷きにして、今
ある青春に添削を加える採点主義者を遠ざけねばなりません。
 賞味期限の切れた人達であり、まだ食品売り場に並んでいるとすれば、かなりの防腐
剤、添加物の混入を疑って間違いありません。
 非常に危険です。
 誤解なきよう言い置きますが、この危険人物に司馬さんは該当しません。彼の作品群
は元々が発酵食品です。
 思想や初心は腐り果てるという事を知り尽くした稀な人物です。
 故に彼の作品群は今後もワインや古酒の扱いに於いて、有益です。
 司馬氏の作品に酔うことは読者の当然の功利です。

 私を今、励ましているのは現代に異質な人達です。
 先ずは甲野善紀なる武道探究者の存在です。
 彼の人物は哲学的審問に悩み、武道をその解決の糸口としようと試みた人物です。心
の悩みを身体で解決しようとしたところに彼の異様さがあります。
(人は運命に拠ってしか生きられないのか?運命は変えられるのか?変えられたとして
も、それも又運命ではないか?)
 この子供染みた問いを中年期に至まで持ち続け、その解答を生活のすべてを賭けて、
武道に求めた点に彼の大胆と希少があります。
この様な人物が、現代に棲息している事実に現代の希望があります。
 では方法論として、甲野善紀は有効か。哲学的命題が武道により解けるのか?結論を
言えば、彼の著作によって彼の武道を理解する事は不可能と思われます。恐らく、その
解答を著書に求める大半の読者は私と同じ結論に至る筈です。
 では甲野善紀は無効か?否、無効ではないのです。甲野善紀とは個人でありながら、
甲野善紀という大系(システム)です。この人は武道という風景です。
山野が広がり、河が流れ、四季が移ろう自然の系(システム)を持つ求道者です。
「求道」とは字面の通りに、宗教に近い精神の作業であると同時にトライアスロンに似
た肉体の作業でもあるという割り切りに彼の凄みがあります。
 彼が読者に伝えている事はその武道的風景を景色として眺めるか、その景色へ歩き出
すか、の問いです。問いに対して、更に問う事で答えとする。答えは無くとも、ここに
応えが生成されます。
甲野善紀は無効であり、有効である立場に立つ事で見事な解答です。
つまり最初の哲学的審問、「運命は変えられるか、否か?」で読者を引き寄せ、「では、
武道とは何か」と応えてゆく論法です。ほとんど、相撲の鬼手「猫だまし」のような論
理の展開です。
 この「あっちむいてホイ」にまんまと引っ掛かると、読者はバッタリと甲野の武道世
界に釣り込まれる事になります。
 そこは絢爛たる武道用語が躍動する世界です。
 例として、私が魅かれた術語をひとつ取出しましょう。
「居着き」
「居着き」とは決心のポイントです。武道世界に沿って、白刃で斬り合う決闘の場のイ
メージを想定しましょう。あるサムライが「コヤツを真っ二つに斬り裂いてやろう」と
白刃を振りかぶった。
 その刹那、このサムライは決意の通りに切り裂く型を求める。型はこのサムライの動
きに「力み」を生じさせる。身体に力を込めた「力み」は動きを澱ませる。澱んだ「力
み」は体軸を固定して、「起こり」と言う始動開始の瞬間を生じさせ、次の動きが方向
性として全身に滲み出る事となる。後だしジャンケンと同様に、先に手の内を見せた者
は易々と敵に読まれる。
 次の動きを敵に悟られる事は武道世界では必敗の構えである。「斬る」と決意したサ
ムライは「斬られる」ための状態を自ら生成した。運命は決定した。このサムライは必
敗の「居着き」の状態でただ斬られる瞬間を待つこととなる。美空ひばりさんの歌では
ないが、勝つと思うな、思えば負けよと言う事なのだが、甲野善紀なる人物はこの状態
を心理の形而上用語に逃げ込まず、あくまで身体操作で解決しようとする。
「居着き」の撤回。つまり、決意を一点に集めて駆動力にするのではなく、分散する事
で異質の機動力を瞬時に創造せよと提案しています。まずは「型」を求めない。脳に近
く、意志が現れやすい肩の力を抜く。肩に力を澱ませない為には、微笑む事。微笑みは
肩の脱力に最も有効である。次に重心を求めない。ふわりと立て、ふわりと歩け。
二足歩行の人類は一本足で立ち、その連続で二足歩行を可能にした。一本足のヤジロベ
エの不安定さを連続で繰返す事により二足歩行を創造させたのだ。決意を次の決意へと
移動させる。歩行を次々に創造してゆく。これが「居着き」の撤回です。更に、歩行に
居着かずに、駆け出す、回転する、跳躍する、翻す、そして止まる。「居着き」の撤回
により、身体操作は「脳」の決意を先回りして事態に対応する事が可能である、と甲野
は言います。
 ホントに可能か。私が見付けた「居着き」撤回のイメージはサッカーの中田英寿の動
きです。
 テレビ画面に登場するこのミッドフィルダーは、その動きに明確な個性があります。
ディフェンダーに囲まれた時、彼は肩から力を抜き、顕著に両腕をダラリとさせます。
ドリブルで敵を抜き去る時、その動きは顕著で、両腕は緩みきって肩に付いているだけ
の長いマフラーのような状態です。恐らくは、「居着き」の撤回が骨身に染みついてい
るのでしょう。
 中田英寿の存在は重大です。
 武道的身体操作の可能性だけでなく、哲学的審問への解答としても重大です。
「運命はすでに決定しているのか」と言う問いに対して、中田はその問いに「居着」か
ぬ事で、命題を保留しているのです。
 つまり、その問いに対して「決定しているかもしれないが、決定していないかもしれ
ない」と保留する事で身体操作の闊達を得ているワケです。考えて観れば、人類進化の
特徴でもある二足歩行とはこの「保留」の身体操作です。「一本足で立てるかもしれな
いが、倒れるかもしれない」の保留の連続が二足歩行というまったく異質な運動を創造
したのです。
「保留」こそが実は創造的な態度であるならば、今まで私が信じて来た明るい語彙はそ
の意味をまったく変える事になる。
「決心」とは実は創造の否定を含み、「安定」とは変化することへの拒否となる。
「必勝」の構えは「必敗」の油断へと解釈を変える。これは、重大です。この文脈に従
えば、例えば恋愛の「愛している」筈の異性への関心ですら、「愛していない」ことも
起こり得る懐疑の不安に他ならない。
意外ではあるが、この文脈は実感の説得力を持ち、リアルです。
恋愛に於いて、ある異性を「愛している」いると決心して、その後に同量の失望を感じ
て、破綻した恋の経験は誰にでもある筈。又、世間の男女の起こす醜聞、事件は間違い
なく、「愛している」と言う決心から始り、破綻に至る文脈が占めている。これは「決
心」が引き起こした破綻である。これは事実としてある。ならば、武道的身体操作であ
る「居着き」の撤回は恋愛の論理としても有効という事になる。
 有効は私を励ます。私を近頃、弾ませているのは実はこの武道的術理用語である。
この用語を用いて私自身を「保留」し、私自身をもう一度再構成出来ぬか?私に「居着」
かぬ私を創造出来るか?私はこの審問に向かって歩き出した。この問いの面白さは、
「居着き」の撤回の完成を目指しつつも、それに到達した瞬間、そこに「居着」く事が
許されない。故に片足を審問に向けただけだ。
次の一歩で私は躓くかもしれぬ。しかし、この「不安定」さは私を自由にしている。私
は歩いてもいいし、前後左右に倒れていいのだ。あなたに向かって発信したこの奇怪な
文章が、あなたに理解されてもいいし、されなくともいい。少なくとも、「理解してほ
しい」という「居着き」からは自由である。
「何言ってるのか判らない」「何したいのかわからない」と言うあなたに私は交信を開
始しました。


(第1回目の交信です。まだあなたの返信を受け付けません)